原爆の日 広島でとうろう流し 原爆投下でなぜ原爆ドームが残ったか?かたりべは…
8月6日、広島市の原爆ドームのそばを流れる元安川では犠牲になった人の霊を慰めようと「とうろう流し」が行われました。世界平和や家族の平和を祈りとうろうが流されました。
目次
73回目原爆の日・広島「とうろう流し」
73回目の広島・原爆の日、犠牲になった人の霊を慰めようと広島市では「とうろう流し」が行われた。
とうろう流しは、広島市の原爆ドームのそばを流れる元安川で行われた。原爆の熱線に焼かれ、多くの人が水を求めて川に飛び込み亡くなった場所。犠牲者を慰霊するため毎年行われているとうろう流し。鎮魂と平和への祈りを込めて、水面に浮かべられた。
原爆の日とは
第二次世界大戦( 太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が広島市へ原子爆弾を投下。人類史上初の都市に対する核攻撃である。
当時の広島市の人口35万人(推定)。9万 ~ 16万6千人、被爆から2 ~4か月以内に死亡したとされる。原爆投下、その一瞬の出来事で。
原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆、そして今も、ケロイド、放射線症、心的外傷、ストレスに苦しむ人々がいる。
以降この日を忘れてはならない過去として、原爆の日、原爆忌、原爆記念日とした。
原爆投下。一瞬で15万以上もの人の命を奪う。15万以上って…皆さんの町の人口はどのくらいでしょう。その後も家族が癌で死んでいく。生まれてくる赤ちゃんは形がなかったという。二度とこのようなことは起こしてはならない。そう願わずにはおれない。
平和祈念式典
同日、6日午前8時から行われ、安倍総理のほか核保有国など85カ国とEUの代表、市民ら約5万人が参列しました。
広島は、夜明け前から犠牲となった人を悼む1日になり、核兵器禁止条約について政府に批准に向けた努力を求めました。
なぜ原爆ドームは残ったか
被爆前の原爆ドームは広島県産業奨励館というところで中心部のドーム部分は銅板が張られきれいな緑色をしていたそうです。
爆心地から近く、爆風を真上から受けたことから中心部が残ったと言われています。熱線は爆心地付近で3000℃~4000℃。銅板を一瞬で溶かし1.4秒間の超高熱を放射。短い時間だったため鉄骨部分は残りました。
建物中心部は円筒形の吹き抜けで衝撃に強い特殊な構造。大きな窓がたくさんあったことも爆風が外に吹き抜け風圧に耐えた要因と言われています。
いつしか原爆ドームと呼ばれるようになり残すかどうかは賛否両論。一人の少女の日記により保存運動が高まり、広島市議会は66年に永久保存を決定。現在、世界遺産。
楮山ヒロ子さん、当時1歳で1.5㎞離れた場所で被爆、16歳の時に白血病で亡くなりました。日記には「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」と綴られてありました。
広島平和記念資料館
広島平和記念資料館では、被爆資料や遺品、証言などを通じて世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を伝えています。
●広島平和記念資料館
開館時間 | 3月~ 7月/8:30~18:00 8月 /8:30~19:00(8月5日、6日は20:00まで) 9月~11月/8:30~18:00 12月~ 2月/8:30~17:00閉館時刻の30分前までにご入館ください。 |
休館日 | 12月30日・12月31日 |
観覧料 | 大人(大学生以上)200円(30人以上の場合、1人当たり160円) 高校生100円(20人以上の場合、無料) 中学生以下無料 |
駐車場 | 一般の駐車場はありません。 |
住所 お問い合わせ
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広島平和記念資料館 〒730-0811 電話:082-241-4004(総合案内) |
被爆者の高齢化・かたりべは…
戦後73年、被爆者の高齢化も平均82歳を越え、体験を直接語り継ぐことが難しくなってきた。
被爆者の中には語りたがらない人も多い。
広島市は2014年から被爆体験を受け継ぐ「伝承者」を養成している。
語り部が平和記念資料館の他、依頼された団体等で講演すると「原爆の日ってなんのこと?」「どうしてご飯をコンビニで買わないの?」等の質問もあり、私達が関心を持ち「知る」、そして、若者に「伝えていく」ことは日本人としての務めである。唯一の戦争被爆国として世界に対して行える役割は多いと思う。「戦争とは何か」「平和とは何か」私達はこれを忘れてはならない。
書籍案内
絵本「わたしがちいさかったときに」
1945年8月6日に広島、9日には長崎に、原子爆弾が投下されました。投下から数年以内で、34万人以上の人が死亡したといわれます。また、放射能などの影響で、被爆した人々だけでなく、その子どもや孫までも、今なお苦しみ続けています。
この絵本は、広島で被爆した子どもたちが体験をつづった詩や作文に、ちひろが絵をつけたものです。 取材旅行で広島を訪れたちひろは、亡くなった人々を思い、一睡もできませんでした。